紅茶好きとして

昨日、とある著名人のコラムを読んで共感すると同時に思うところがあったので今日はそのことについて書きます。

人は好きなものを突き詰めていくと、とかく原理主義になりがちですよね。こうじゃないとダメ、あれは違う、それは邪道みたいに。

私は幼少期から紅茶が好きで、昔は選択肢があまりなかったこともあり何も考えずに紅茶なら何でもおいしいと思って飲んでいました。ところが、大きくなるにつれて飲める種類が増えて経験と知識が多少なりとも増えてくると、それに比例して「おいしくない」と思う機会も多くなりました。

加えて、そもそもティーバッグで淹れるってどうなん?和紅茶って紅茶といえる?とも思うように。原理主義の始まりともいえます。

仕事で紅茶を淹れたり茶葉を販売したりするようになると、日本における紅茶のお手本とされている内容も知りたくなり、日本紅茶協会(という組織があるのですよ)認定の資格を取ってみたり。

ここ数年はとにかく飲んだことのない紅茶はまずは飲んでみるようにしています。その中での新しい気づきは、1杯目からおいしいと思うものと1杯目はイマイチでも何回か飲んでいるとおいしいと思うものがあるということ(淹れ方を試行錯誤してたどり着く場合もあり)。

で、去年お店を始めてから感じているのは、おもしろいことに紅茶に対して少しずつ大らかになってきているということです。一時はおいしくないと思っていた和紅茶も、コンビニで買えるティーバッグも、嗜好品なので好みはもちろんありますが、だいたいおいしい。午後の紅茶も久しぶりに飲んだらおいしかった。商品自体が改良されていることもあるのでしょうが、おいしいと感じる紅茶が10年前より確実に増えました(が、カフェで出てくる紅茶が一番当たり外れが大きいと感じるなあ)。

好きなものを突き詰めていくと、原理主義を通過して自由主義になっていくのかなあと考えていたところ、先述のコラムが似た内容だったのです。

そこで思い出したのが淀川長治さん。

昭和世代の方はご存知でしょう「サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ」でお馴染み、神戸出身の映画評論家です。淀川さんは「どんな映画でも必ずひとつはいいところがある」と言ってB級とされる映画でも決してけなすことはなかったそうです。ということを、どんな作品もけなしているのを聞いたことがないキノ・イグルーの有坂さんに教わりました。
二人に共通しているのは、解説をされていても本当に映画という文化全体が好きなんだなあというのが伝わってくるところ。

私も紅茶を飲み物としてだけでなく、淹れる行為や時間、道具、歴史、作ってる人なども含めて好きなので愛の深さはお二人の足元にも及びませんがわかる気がします。

映画も紅茶も大半の人にはなくても生活に困らない類のもの、だからこそ嗜好を探究しつつ寛容でもありたい。甲乙をつけたりレッテルを貼ったりせず、ただただ好きを貫き通して「こんなにいいものなんですよ」と多くの人に伝えられている姿勢、ジャンルは違えどいいなあと敬愛しています。

私はまだまだお二人のような諦観の域には程遠いですが、いち紅茶好きとしてこんな風に懐深く紅茶を扱っていきたいと思いながら飲んだ今朝の一杯はカジハラさんの夏摘み香駿。やっぱりおいしかった!